人生は旅のようです。

2012年06月13日その他

先週、土日の休みを利用して、故郷の貴港市へ親父の見舞いに帰りました。。
父は今年もう85歳になりました。十年ぐらい前、転んで足が怪我したまで父は体が元気でした。その後、足が悪くて、動きが不便になりましたが、毎日同じ年寄りの友たちと中国将棋をやっていて、別に寂しくは感じていなかったようです。今年の旧正月に故郷に帰った時、父の健康状態は前と比べて、大分悪くなったことに気が付きました。父と二人で話している間、「子供を六人育てているのに、誰も相手にしてくれないで、寂しいな」と父は突然泣き出しました。実際のことはそうではないと知っていましたが、イメージの中に強かった父のその様子を見て、驚きもし、悲しみもしました。「時々友達と将棋をやれば気分転換して、健康にいいですよ」と慰めると、「誰とやるの」と聞きました。近年、将棋の仲間は相次いで亡くなってしまったのでとうとう将棋をやる相手もいなくなりました。父は毎日いらいらして、気分も悪くなる一方でした。機嫌が悪くて、すぐかんしゃくを起こして人を罵り、家族全員の機嫌を損ねてしまいました。二ヶ月前、父は突然「体の具合が悪い」と言って、どうしても病院まで家族の人に送ってもらいました。体の診断を受けられた後、「大した病気はない」とお医者さんが言いましたが、無理して病院に入院しました。入院の間、家族の人のほか、お医者さんや看護婦さんなど周りの人はみんな父に罵られました。先週「父は病院でずっと大声であなたの名前を呼んでいたから、見舞いに帰ってきてください」と姉から電話をかけてきました。
父の入院した病院に着いたのは土曜日の夜の七時頃でした。父は寝ていました。瘦せこけた父を見て私は思わず涙が流れました。持っていったお粥を食べさせると父はおとなしく食べてくれました。傍にいるお使いさんのおばさんは「三日間も続いて何も食べていませんでした。誰が食べさせても食べてくれなかったんですが、やはりあなたの言うことをよく聞きましたね。」と言ってくれました。「父さんは間もなく死ぬから、それ以上帰らないともう父さんに会えなくなるよ」と父は何回も泣きました。そのうち、父は突然「帰る」と言いました。「帰るって」と私が聞き返すと「退院して、家へ帰りたいです。」と父がもう一度言いました。今まで家族の人とお医者さんは何回も「なおりましたから、もう退院してもいいですよ」と言ってもなかなか帰りませんでした。今度、自ら帰るように求めたことをみんなは不思議でした。人間は若い時いくら強くても、年取ったらやはり子供のように弱くなります。赤チャンから始まり、それぞれ少年、青年、丁年と老年を経て、最後はまた赤ちゃんに戻ります。父はみんなに関心してもらうため、色々不思議なことをしたのではないでしょうか。
病院から家へ帰る時、廊下には病床がぎっしりと並んでいました。人間の生命は短くて、あっという間に年寄りになってしまいます。近い将来私は必ず年寄りになってしまいます。中国はその時既に高齢化社会に入ったに違いないと思います。その時の老人は年金をちゃんともらえるのか、或いは病気にかかったらちゃんと入院できるのかちょっと疑問ですね。その点から言えば父は将来の私よりいいかもしれません。


 

 

 

 

 

 

 

 

 



故郷の貴港市へ帰る途中「幽蘭」といういい名前の町に臨時停車しました。「それほど優雅な名前を持つ町は一体どんなところでしょうか、のどかな町で、人々は素朴で、優しい人間でしょう」と私は窓越しで見ながら勝手に想像しました。「チャンスがあったらぜひ遊びに来たい」と おもいました。チャンスはつまり「縁」のことです。今まで人間と人間との間に「縁」があると思いましたが、その瞬間、人間と人間以外のすべての物の間にも「縁」があるのではないかと悟りました。そして人間と人間の間の「縁」を大事にするだけではなく、人間と物の間の「縁」をも大切にしなければならないと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんなのどかな所に住んでいる人が羨ましかったです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 桃源郷みたいなところでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちょうどここの所に臨時停車しました。するとそこの一草一木との「縁」が決まったわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

母は学校の教育を受けたことのない中国の伝統的な女です。勤勉で優しい人です。生涯苦労してきましたが、敬虔な心はいつまでも変わらないです。毎日朝と晩二回祖先に線香を立てます。そのおかげで80歳になっても髪が黒くて、歯も落ちないです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

我が家の「骨董品」です。 私が中学校の時買った扇風機で、もうぼろぼろになっていますが、35年経ってもまだ使えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

弟が飼っている醜い犬です。名前は「白」ですが、母はわざわざ「黒」と呼んでいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 駅のターミナルに入るには身分証明書を見せる同時にボティ―検査を受けなければならなかったです。治安が悪くなったので人々は不安感が強くなる一方です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日常の生活の中で民族ファッションを着た人が珍しいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

柳州の駅に着くと降りるお客さんがたくさんいました。込んでいた列車は急に空いて来ました。訳も分からなく寂しくなりました。人生はまるで長い汽車の旅の様です。降りる人がいると同時に上がる人もいます。一つ一つの「駅」から人生の「旅」になるわけです。

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コメント(4)

作者:( 「ふれあい中国」)

お客様からのコメント

1野良猫2012/06/18 20:32返信

 どんなに厳しく、つらい人生であっても、最後に幸せが感じられるなら、その人の人生は幸福であったと思います。逆に贅の限りを尽くしても、末期が満たされないなら、幸せとは言えません。陸さん、できる限り時間を作って、父上との時間を過ごしてください。父上は、家族の中の誰よりも、陸さんが好きなんだと思います。そして父上に、一日でも長生きをしてほしいです。

  • 2012/06/20 16:47

    「野良猫」さん、こんにちは。コメントをいただき、感動しました。ありがとうございました。仰った通り、最後に幸せが感じなければ幸福な人生とは言えません。できる限り時間を作って、ふふ里へ帰って父と一緒に時間を過ごしたいと思います。

2江樹2012/06/14 17:57返信

50になってからだんだん人生の正味をあじわえてきますね、感動は自然に出てくるもので、けして故意なものではありません。”父は寝ていました。瘦せこけた父を見て私は思わず涙が流れました。持っていったお粥を食べさせるとおとなしく食べてくれました。”ここまで読んで、私の涙も思わずこぼれてしまいました。”おとなしく食べてくれました”いかに感動な表現です!

  • 2012/06/14 23:14

    「江樹」さん、お久しぶりでした。長いブログを最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。私はセンチメンタルで、涙がもろい人間です。男として他人に弱いイメージを与えるのではないかと困っていますが、気持ちをよく理解していただいて、ありがとうござました。

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