通遼観光

通遼市は内モンゴル自治区の東部に位置しており、松遼平野の西端にあります。東に吉林省と接し、南に遼寧省と隣接しています。また西に赤峰市と錫林郭勒盟と、北に興安盟とそれぞれ繋がります。面積が5、6万平方キロメートルに達しています。人口が309万いると言われます。

通遼市は典型的な大陸的気候に属し、春になると風が強くなり、乾燥するタイプであり、夏になると暑くなるうえ、雨が多くなります。年平均気温が0~6度で、年降水量が350~400mmの程度です。

歴史の遺跡の発掘によると早くも春秋時代に通遼地区では東胡人と呼ばれる部族が現れました。秦と漢の時代に入り、通遼一帯は中原政府とのつながりが更に多くなり、支配下にも納められました。この時代から通遼地区が中原辺りの優れた生産技術や文化などの影響を受けてあらゆる方面における大きな発展と繁栄が遂げられました。南北朝時代から宋代にかけて通遼は更に中原での隋や唐の王朝との交流が盛んになりました。そのために経済や文化などの方面における発展が新しい時代を迎えたと言えます。特に遼の時代になると牧畜業が空前の繁栄が遂げられました。紀元1206年、チンギスカンがモンゴル帝国を造り、通遼をその支配下に入れました。明の時代になり、通遼が明の政権により納められました。16世紀、ノルハチが「大金」という政権を樹立して通遼を管轄しました。清代になると通遼がそれまでの部落制度を改めて「盟、旗」という編成制度に取って代わられました。1636年(崇徳元年)通遼で初めての哲里木盟という行政を設けてその下の4部、10旗を管轄しました。清代に、哲里木盟が政治や、軍事、経済領域において大きな役割を果たしたと考えられます。1912年、中華民国が成立してから通遼が北洋政府の管轄になり、解放戦争の時、哲里木盟が哲里木省と改名され、当時の通遼が「白音泰賚鎮」と呼ばれ、最後に「通遼」と定着しました。1949年4月、哲里木盟が内モンゴル自治区の行政に納められました。1999年10月に哲里木盟行政を撤去してクラスに昇格させ、内モンゴル東部の中心的都市になり、内モンゴルの四番目の町と成長しています。

通遼市が引き続き「中国金融生態の模範都市」、「潜在力のある都市」、「創建文明都市工作先進都市」、「中国双擁模範都市」、「三北防護林第四期プロジェクトの模範都市」、「中国林業生体建設先進都市」、「文化的特色の十大都市」などの称号を獲得したことがありました。

通遼市は野生動物が多く生息しており、国の一級動物とされるのが丹頂鶴、コウノトリ、ノガン、梅花鹿、紫テンの五種類が数えられます。通遼市は土が肥えて国の重要な食糧の産地としてよく知られています。トウモロコシや小麦、水稲などが獲れます。通遼は牧畜業も発達していて、「黄牛の里」と呼ばれています。

通遼市の主な観光地として扎魯特山地草原旅行区や大青溝自然保護区、孝庄園旅行区、特金罕山自然保護区などが挙げられます。